2006/03/30(木)メールについて。
私は言いたいことを伝えるのがへたくそだ。
"何かについて説明する"のであればそれなりに話せるつもり。
ただ、その対象が"自分の感情"だった時に限りうまくいかない。
自分がちょっと大人になればいい、と、そう、思って何かを我慢しても、
その我慢をなかったことにできずにストレスを抱えてしまうのでは、
大人になるもくそもない。
彼の言うとおり、光なんか引っ張んない方がよかったかも。
誰かとのつきあいを密にしてこそ、行間も読めるようになる。
行間とは、"雰囲気"のことであり、つまり、「空気を読む」ということである。
相手の空気を読む。それが感情を伴うコミュニケーションを円滑に進める上でもっとも大事なことだと思う。
相手に感情を伝える意味での"コミュニケーション"では、
表情5割、声色3割、言語が1割、その他1割、などという話を聞いたことがある。
言語は何かを定義し説明するためのツールであり、感情を表現するのには向いていないらしい。
"嘘を嘘と見抜けぬ人間がケータイメールを使いこなすのは難しい"。
空気の読めない相手とメールや手紙で「感情」のやりとりをするのは危険だと考えている。
というのも。
私は、誰かの問いかけに対して曖昧な反応をしがちだが、
私は、私の問いかけに対して曖昧な反応をされるのが嫌いだ。
そのくせ、本当に言いたいことは行間に託してしまうが故、
勘違いされることがやたらと多い。
そして、何かしら勘違いされては、凹むのだ。
切実な願いを抱いていたときはダメージもでかい。
もちろん、言葉にできなかった自分のせいなのだが。
最近は、自分がそういう人間であることは認知しつつあるので、期待もしなくなった。
そうやって、言いたいことを言わないできたがための今の有様だと言えよう。
それは今更どうしようもないことだが。
このまま伝わらなくてもいいと思っている。
そして、伝えたところでおそらくどうしようもないこともわかっている。
そう、この切実な願いは、実のところ、"無理を承知している"のだ。
いずれにせよ、私が自分から"言わない"のだから、わかってもらえようはずもない。
それでも、私は「お前はわかってない!」を振りかざす。
ここが笑うに笑えなくて笑うしかないところ。
メールというのは実に都合の悪いツールだ。
符号化されて無機質となった文字は、雰囲気など1%も伝えてはくれないのだ。
私がそれを言わないのは、私が何を言っても、受け入れてはもらえないことを、知っているからでもある。
それが勘違いであると言うのならば、私を正してほしい。
どうか、勘違いでありますように。
……いや、もう、諦めたはずだ……。
実に滑稽な。